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関東

7_05秩父事件 町場の繁栄と農村の疲弊

<2階建ての養蚕農家:県境を越えた群馬県上野村>

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明治の激動期、貧困にあえぐ農民による暴動が全国で勃発しました。「秩父事件」もその一つですが、いずれも歴史上は「事件」の名のとおり犯罪の扱いです。秩父事件の背景を学ぶため、事件の発端となった皆野町や秩父市中心地と県を越えて群馬県や長野県も訪ねてきました。

秩父の夜祭

秩父地方は、荒川とその支流の河岸段丘上の傾斜地のため、米麦の代わりに生糸を年貢の代替とし、余剰を秩父市街に店を構える商家に売却し、生活物資の購入に充てていました。秩父夜祭が米作地帯の秋祭りより遅いのは、養蚕との関わりからです。12月3日には農村相手の「大市」が開かれ、近郷の人で賑わい、今は一大観光エベントとして、首都圏から多く人たちが訪れています。

京都祇園祭、飛騨の高山祭とともに、日本三大曳山祭と言われる秩父の曳山は、財力のシンボルとして町内ごとに競い合いました。歌舞伎も上演される夜祭りは、国の重要無形文化財と有形文化財の両方に指定され、ユネスコ無形文化遺産にも登録されています。

秩父夜祭と飛騨の高山祭りに共通するのは、畑作中心の農村を後背地に持っていることです。江戸時代末期には貨幣経済が進展、畑作農家は商家からの借財に苦しみ、極度に疲弊しました。華やかな高山祭が開かれる一方で、飛騨一国を巻き込む「大原一揆」が発生ました。

栃木県内でも、煙草の産地烏山、麻の産地鹿沼の祭りも町衆のもので、周辺農民の疲弊の上に成り立ったものとも言えます。烏山藩周辺の村では一揆がしばしば起きました。

秩父事件/幕末になると、養蚕業は、生糸の輸出に支えられて好景気となり、さらに明治維新後、殖産興業の先陣となり、貿易の大きな柱となりました。養蚕農家は好景気を背景に、資金の借り入れて規模を拡大し、蚕室を持つ二階建ての大きな住宅も建てました。生糸バブルです。

一転して明治10年代になると、松方デフレ政策によって生糸の価格が暴落しました。困窮した中小農民は、借金返済猶予、減税などを要求し、団結して示威行動をおこしました。

折から、国会開設などを求める自由民権運動が盛んになり、秩父の農民たちは連動し「秩父困民党」を結成、郡役所や高利貸しなどと団体交渉をしました。

要求が容れられず、明治17年11月、吉田(皆野町)の椋(むく)神社に3000名が集まり、武力闘争に突入、郡役所や富商などを襲撃、日本近代史の中で最大の農民暴動となりました。国は軍隊まで派遣して鎮圧、波及を恐れ、首謀者を2週間内に死刑執行しました。政府の動揺が窺われます。秩父の農民運動は、思想性が未熟で、地方の「事件」で終結、全国に波及しませんでした。夜祭は、暴動の年だけ中止さてすぐ復活、商家は暴動でも痛手が少なかったのです。

暴動は県境を越えて群馬県や長野県佐久方面にも及びました。単に「秩父事件」ではありません。国政の失敗を国民を守るはずの軍隊を派遣して鎮圧した「秩父事件」が近代日本史中でもっとに正当に扱われるべきです。

<手筒花火で有名な椋神社:境内で決起集会が行われた>
<手筒花火で有名な椋神社:境内で決起集会が行われた>

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